私は、いわゆる団塊の世代の一員として今年還暦を迎えましたが、現役時代に技術発展に

多少なりとも貢献できたかと自負する各種金属加工技術をこのまま埋もれさせるのは残念で

あり、私の保有技術が皆様にお役立ていただけるものであれば誠心誠意伝授させていただく

ことに余生を捧げ、微力ながらも日本の産業技術発展の一助になればとの思いから、遅まき

ながら起業いたしました。

 したがって、会社の目標は次世代を担う若手の人材育成活動を中心とする社会貢献におき、

儲けは一切目指さず、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」を座右の銘として誠実な経営に徹し、決し

て浮つかず、地に足がついていることを絶えず確認しながら一歩一歩前進して参ります。

(200712)

                                     

 

 



 《上の画像をクリックすると大きな写真が開きます。》

 

故郷の高玉鉱山を顧みて

【はじめに】

昭和29年当時の高玉鉱山後背から眼下眺望の写真は、弊湘南メタルテック(株)の事業とは何の関連もありません。

たまたま、父康行の十三回忌もとうに過ぎた平成31年のある日、生前父が家族への遺品として整理して小生に残し

たかったと思われるスクラップ帳「高玉鉱山篇」、「軍隊篇」、「家族篇」等が古い葛籠から出てきました。

そして、「高玉鉱山篇」の中に、5枚一組で超横長となる写真がスクラップ帳には長すぎて貼り付けられないことから、

3枚つなぎと2枚つなぎに分けて差し挟まれていました。

それを近所の写真館に持ち込み、写真同士のつなぎ目を合わせて横長の一体写真として撮り直しを頼んだところ、

拡大、縮小が自在な見事な立体写真となってCDに収められ、高解像度で我が古き故郷が鮮明な画像として浮かび

あがり、幼少時の光景に蘇ったことに驚かされました。

なお、その当時国産の安物カメラでは高解像度は無理なはずで、父が戦前より鉱務課測量に従事していたことから、

業務用の例えばドイツ製高級カメラを借りて正月休日に趣味で撮影したと思われます。

その甲斐あって、平成31年から遡ること65年前の昭和29年正月の我が故郷の全景が鮮やかに浮かびあがり、

なんとも懐かしく、高玉鉱山から山に隠れた熱海小学校や熱海中学校への徒歩通学路の一部までもが鮮明に遠望

されており、同級、同窓の皆様方にもぜひとも当時を懐かしく回想いただければとの思いで弊湘南メタルテック(株)

ホームページを利用して情報発信させていただいた次第です。

ちなみに、該眺望写真は小生、小学校入学の三ヶ月前のことでしたが、眼下眺望の風景は昭和37年10月に中学

三年で熱海町を去るまで、故郷の景観にほとんど変化は見られませんでした。

 

【高玉鉱山から見る三次元眺望写真】

それでは、眺望写真をご覧いただきながら、昭和29(1954)年1月に遠望された、熱海町内にどっしりと腰を据えた

山並や通学路を写真の高解像度・三次元拡大写真でしばし懐かしんでください。当時の通学路の一部も鮮明に浮き

上がって見えますよ。蛇足ながら、山並の向こう側には安積盆地が開け、国鉄(当時)磐越西線岩代熱海駅は、昭和

30年代まで駅名を「鰯の頭」などと都会からの観光客にしばしば揶揄されましたが、現在は磐梯熱海駅に改名され、

駅を中心に熱海町は左右に開けていますが、残念ながら山陰になって見えません。

 

【高玉金山史概要】

まず始めに、小生、高玉鉱山の歴史を語れる知識を持ち合わせませんので、平成22(2010)年10月25日版の福島

民報新聞に掲載された安斎康史様ご執筆の記事を一部引用させていただき、以下簡単に歴史を振り返ります。

さて、高玉金山開闢は、遡ること446年前の織田信長時代の天正元(1573)年と極めて古く、爾来幕末に至るまでの

永きに亘り莫大な量の金・銀を採掘し続けてきました。幕藩体制が崩壊した幕末後に、高玉金山は一時休山となって

いましたが、大正7(1918)年に再び高玉鉱山の名で生産が再開され、その後昭和4(1929)年に、久原財閥の頭領久原

房之助氏が金鉱山の経営権を取得して「日本鉱業高玉鉱山」として本格的に生産が開始されました。

ちなみに、二代目社長の鮎川義介氏が金・銀・銅による鉱山事業の収益で新財閥「日産コンツェルン(日本産業株式

会社)」を創立し、日立製作所や日産自動車等を傘下に治めました。爾来、金・銀の生産量は急増し、それに伴って

戦前最盛期の高玉鉱山の従業員数は約1,500人と増え、家族を含めると約4,000人を数えて熱海町の人口の中核

を占めるに至りました。

しかしながら、戦後、昭和40年代の高度経済成長を迎えて、それ以前は金の価格は国際的に永らく固定価格で維持

され、1グラムあたり660円と高値で安定し続けてきたものが、自由化により価格崩壊した結果、金鉱脈の枯渇化に

人件費の急騰も相俟って採算がとれなくなり、昭和51(1976)年に高玉鉱山は閉山のやむなきに至りました。その時

には、わが父康行はすでに昭和37(1962)年10月に希望退職して家族一同新潟市内に転居しておりました。小生、

中学三年生の時でした。

 

【桃源郷高玉鉱山の終焉】

話しを戻して、大正時代以降から昭和51年の閉山までに、高玉鉱山が採掘した金の総量は約28トン、銀の総量は

約280トンと膨大な量であったとのことでした。而して写真に見える熱海町の平地から高さ約200m程の天空より

眼下に熱海町を鶴翼に睥睨し続けてきた高玉鉱山は、施設や建物が全て撤去されて土に還り、今日では恐らく鬱蒼

とした無人の森林に戻ったでありましょう。写真の高玉鉱山跡地は、恐らく熊どもに支配されていて安易には近づけ

ないのではないでしょうか。

 

【写真上の施設類】

最後に、昭和29年1月の眺望写真に見られる施設と、弊松井の住居の移り変わりを披露いたします。

 1.画面左端の急斜面に見える施設は、金鉱石から金を精製抽出する青化精錬所

 2.雪に隠れた高玉鉱山軟式野球部専用の野球場

 3.運動場(上記2の左手最奥、殿様バッタがはびこる原っぱ)

 4.中央に分散する従業員社宅(小生は中央の大平(おおだいら)社宅で生まれ二歳まで入居)

 5.写真中央からやや左手奥、山陰になって写真には見えない向かい側の山すそにあった青木葉鉱山社宅

   に二歳〜四歳まで入居(現在は「高玉金山」の名称で金山坑内巡りの商用観光施設に変遷))

 6.写真中央の裏手、画面を外れた各所に分散する社宅群で高玉鉱山事務所脇の高玉鉱山本坑である

   本山三番抗のすぐ近くで最も高台にあった本山社宅に四歳〜六歳まで入居

 7.写真中央から右手松林の向こう側の山裾に沿って流れる石筵川(当時、夏場は水浴や魚獲りができた

   清流)に架かる田代橋を渡ってすぐの高玉鉱山入口にある田代社宅(山裾にあった社宅が木立ちの陰に

   隠れて見えず)に六歳〜十五歳 昭和37(1962)年10月まで入居

 8.写真中央から右手遠方の山影にある熱海小学校と熱海中学校に毎日徒歩通学した自動車道路の一部